この記事は、スタジオ・ジブリのプロデューサーである鈴木敏夫さんの凄さについて、その逸話やエピソードをまとめました。
第1回目は、「風の谷のナウシカ」が生まれたキッカケとなった宮崎駿と高畑勲を繋げた話について書きました。
スタジオ・ジブリのプロデューサー鈴木敏夫さんって、どんな人?
SOGEN
スタジオ・ジブリのプロデューサーの鈴木敏夫さんが好きです。
彼の言葉や立ち振る舞いがとても好きで、関連する本を読み漁りました。
その中から、鈴木敏夫さんに関する好きな話を紹介します!
今のスタジオジブリがあるのは巨匠・宮崎駿と天才・高畑勲の功績がとても大きいのは言うまでもありませんよね。
宮崎駿さんは、「となりのトトロ」や「千と千尋の神隠し」を、高畑勲さんは「平成狸合戦ぽんぽこ」や「かぐや姫の物語」などを制作してきました。
最初は演出家とアニメーター、師匠と弟子のようだった2人の関係は、やがて監督同士となり、友人でありライバルでもあるという関係に変わっていきます。
そしてその強烈な個性をもった2人の関係を支えたのが、プロデューサーの鈴木敏夫さんであることはよく知られた事実ですよね。
もうすぐスタジオ・ジブリにとって初めての3D作品である「アーヤと魔女」が公開されますが、この作品でもプロデューサーとして活躍しています。
上記の作品は全て鈴木敏夫さんがプロデューサーとして活躍し、宮崎駿と高畑勲の作品を世に広め、今のジブリを築いていくことに大きく貢献しました。
とはいえ、当然ながらこの二人と対等に仕事をしてきた人なので、鈴木敏夫さんも強烈で強い個性をもった方なんですよね。
僕は個人としての鈴木敏夫さんがとても好きですが、同時に「宮崎駿と高畑勲と鈴木敏夫の関係性」もとても好きで、その逸話について紹介していきます。
鈴木敏夫さんが繋いだ「風の谷のナウシカ」制作裏話
鈴木敏夫さんは、「プロデューサーの仕事で一番大切なことはなにか?」という問いに、「常に監督の味方になること」と言っています。
これは、高畑勲の教えでもあり、鈴木敏夫さんが 大きな指針としてずっと実践してきたことでもあります。
例えばこんな話があります。
風の谷のナウシカがジブリの最初の作品ですが、当時鈴木敏夫さんは徳間書店に勤めていて、ジブリの社員ではありませんでした。
しかしナウシカの制作では、 スポンサーであると徳間書店と、広告代理店である博報堂と、制作である宮崎駿をつなげるような、実質的にはまさにプロデューサー的な役割を担っていました。
マンガとして評価の高かった「風の谷のナウシカ」を映画化する話が進んでいく中で、作者の宮崎駿は1つだけ条件を出しました。
それは、高畑勲プロデューサーにしてほしいと言うものでした。
風の谷のナウシカ 全7巻箱入りセット「トルメキア戦役バージョン」
それを聞いた鈴木さんは、当然高畑さんの説得に試みます。
数週間、毎日のように高畑さんの自宅に通ったものの、小難しい性格の高畑さんはなかなか首を縦に振ってくれません。
そしてとうとう、高畑さんは鈴木さんに断りの旨を伝えます。
その方法が、また面白いんですよね。実に高畑勲らしいんです。
高畑さん自身が、自分がいかにプロデューサーとして向いていないかと言うことを、大学ノートにまとめて提示してきたんです(笑)
日本とアメリカとヨーロッパのプロデューサーを比較したり、自分が付き合ってきたプロデューサーの具体例を出したりと、自分がいかにプロデューサーとして向いていないかと言うことを理屈っぽく鈴木さんに伝えたそうです。
これぞまさに高畑勲。
「かぐや姫の物語」や、「隣の山田くん」など素晴らしい作品を数多く残していますが、宮崎駿が「大ナマケモノの子孫」と呼ぶほど、時間をかけながら思考に思考を重ねて理屈っぽく行動する高畑さんらしい逸話です。
さて、断りの旨を受けて、鈴木敏夫さんは当然困るわけです。
といっても事実は変わらないので、宮崎駿さんの元へ向かい、「どうしても高畑さんがプロデューサーじゃなければいけないんですか」と尋ねてみることにしました。
しばらく沈黙した後、 宮崎さんは鈴木さんを飲み屋に誘います。
そこで、宮崎さんは日本酒をたらふく飲みだしたと思ったら、しばらくすると涙をこぼしている。
そしてポツンと言うのです。
「俺は高畑勲に自分の精神を全て捧げた。でも、何も返してもらっていない」と。
鈴木さんは、宮崎駿さんが高畑勲さんにプロデューサーをしてもらいたい理由を知り、もう一度高畑さんのところに行って「高畑さんやっぱりプロデューサーをやってください」と伝えに行きます。
だけど、そんなことは知らない高畑勲さん。
当然断り断る高畑さんに対し、「理屈ではそうかもしれないけれど、皆さんがどうしてもやってほしいと言っているんです。友人が困っているのに、あなたは力を貸さないんですか!」と、自分でもびっくりするほど大きな声で、思いをぶつけたのです。
そこで高畑さんは「わかりました」と態度を一変させ、プロデューサーを引き受けることになるんですね。
これが、「風の谷のナウシカ」が誕生した話です。
当然、引き受けたからには、完璧な仕事をする高畑勲さん。
そこからの高畑さんは人が変わったように実務を開始し、圧倒的な仕事ぶりを見せます。
鈴木さんはその姿を間近で接し、ジブリのプロデューサーとして仕事を始めていくようになる礎となったのです。
風の谷のナウシカの制作始めにプロデューサーのような仕事をしたのはまさに鈴木敏夫さんの方でしたが、高畑勲さんの元でプロデューサーとしての仕事を始めていき、今の伝説的なプロデューサーとしての地位を得るようになっていったんですね。
残念ながら、高畑勲さんは2018年に亡くなりました。
この話を知ってから、高畑勲さんの弔事を読む宮崎駿さんの言葉を聞くと、さらに二人の関係性にグっとくるし、その二人を繋いだ鈴木敏夫さんとの関係性が好きになります。
https://www.youtube.com/watch?v=0IwfsHh5JjI
ジブリのプロデューサー鈴木敏夫さんのエピソードまとめ
ここに書かれていた話は、鈴木敏夫さんについてかなり詳細に書かれた「ALL ABOUT TOSHIO SUZUKI」に書かれています。
めちゃくちゃ面白い本なので、スタジオ・ジブリに興味のある方、鈴木敏夫さんに興味をもった方はぜひ読んでみてください。
僕の鈴木敏夫好きが止まらないので、まだまだ鈴木敏夫さんについて書きたいと思います(笑)